めっき屋人生写真館
忠ちゃん奮闘記
1940 誕生
1968 寒ぶな釣り
1945 戦時中と爆弾
1968 母のテレビ感電死?
1948 震災とおばんどこ(父の実家)
1950 ご飯たき
1953 父の病気
1950 父の話と思い出
1951 父とグローブ
1962 1回目の養子の話
1954 父の死
1960 お中元 お歳暮の話
1961 ボーナス
1959 松原めっき時代の話
1960 涙のリアカー
1961 なぜ めっき業を
1962 大起工業勤務時代
1963 結婚
1963 新婚旅行
1963 38豪雪福井に帰る
1963 創業初めての売上
1964 中古品
1965 励まし
1965 武田機械の話
1965 お客様とは
1965 早川社長の話
1968 親方来社
1967 初めての借金
1968 母に言った言葉
1969 冬の西瓜
1970 次男の交通事故
1972 福井弁
1973 大きな仕事
1977 勝たなければ意味が無い
1975 電子部品めっきのきっかけ
1980 壊し魔
息子たち
長男・肇の昔話
次男・卓二の昔話
三男・忠幸の昔話
創業当時を語る
早瀬さん(元常務)の昔話
村尾さん(元工場長)の昔話
清川敏部長の昔話
ISO-14001,9001認証取得 ISOへの挑戦 清川 卓二
会長語録  清川 忠
その他
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 忠ちゃん奮闘記 / 1969 冬の西瓜

 昭和44年3月に母は亡くなった。商売を始めて6年目のことであった。
昭和44年頃と云うと小玉の冬の西瓜は今とは違いおいそれと口に入るものではなかった。だるま屋の東隣のフルーツ梅田にしかなかった。今はどこのスーパーマーケットに行っても、2〜3百円も出せば、おいしいすいかが買える。今から28年前には季節外れのすいかは小さいもので5〜6千円、ちょっと大きいと8千円ぐらいしていた。現在の金額に置換えると大変なものであった。多分、当時の高卒の初任給が1万2〜3円だったと記憶している。

 母は日赤病院に入院していたが、体は衰弱し何も食べられない状態であった。母に「おっかちゃん何か食べたい物はないか」と尋ねるとしばらく考え込んで「うん、すいかなら食べてみたい」と言い出したのである。一瞬どこに売っているのだろうと頭をよぎった。「うん分かった、分かった」と云って見たものの、駅前で探せば何とかなると思い探し歩いた。あるにはあったが、余りにも値段が高いのでびっくりした。庶民の口にするものでないと思ったが、「親の望みなら借金をしてでも」と云う気持ちで買い求め、病院にとって返した。母の口にスプーンで運ぶたびに、「おいしい、おいしい」と舌づつみを打っていた。日頃は体がつらかったのであろう、こんな笑顔が見られるのなら毎日でもと思ったものである。1週間程すると、またスイカを買いに走った。一ヶ月半から二ヶ月程続いた。あえなく母は亡くなった。何か親孝行したような気がする。しかし一番生活の苦しい時期でもあったことも事実である。その頃母の看病に日の内は兄嫁と家内が交代で看病し、夜になると兄と私で看病したものである。大分足が病めるのか、良く足を揉んでくれといった。足を毎日揉んでいるとやせ細っていくのが感じられた。

  頭に浮かんできたのが「老ショウ不ジョウのさかいなれば…」であった。人間ははかないものである。



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