めっき屋人生写真館
忠ちゃん奮闘記
1940 誕生
1968 寒ぶな釣り
1945 戦時中と爆弾
1968 母のテレビ感電死?
1948 震災とおばんどこ(父の実家)
1950 ご飯たき
1953 父の病気
1950 父の話と思い出
1951 父とグローブ
1962 1回目の養子の話
1954 父の死
1960 お中元 お歳暮の話
1961 ボーナス
1959 松原めっき時代の話
1960 涙のリアカー
1961 なぜ めっき業を
1962 大起工業勤務時代
1963 結婚
1963 新婚旅行
1963 38豪雪福井に帰る
1963 創業初めての売上
1964 中古品
1965 励まし
1965 武田機械の話
1965 お客様とは
1965 早川社長の話
1968 親方来社
1967 初めての借金
1968 母に言った言葉
1969 冬の西瓜
1970 次男の交通事故
1972 福井弁
1973 大きな仕事
1977 勝たなければ意味が無い
1975 電子部品めっきのきっかけ
1980 壊し魔
息子たち
長男・肇の昔話
次男・卓二の昔話
三男・忠幸の昔話
創業当時を語る
早瀬さん(元常務)の昔話
村尾さん(元工場長)の昔話
清川敏部長の昔話
ISO-14001,9001認証取得 ISOへの挑戦 清川 卓二
会長語録  清川 忠
その他
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 忠ちゃん奮闘記 / 1950 父の話と想い出

 私の子供の頃こんな話を聞いたことがある。
40〜50年前までは町内のおおやけ衆か、元村で育った者しか町内会長にはなれなかった。いくら力があり町内に貢献してもよそ者はよそ者である。父は下河北より婿養子にきたのである。母は二人姉妹の次女である。母まつのは 父堺と結婚し父は清川家の田畑を守りその上何がしかの財産を積み上げたと思う。かなり頑固であるが、頑張りやでもあった。
頑固と言えばいろいろあった。

 秋の取り入れ時が済むと必ず家出をする。一週間ぐらいしてから私が「おとうちゃんどうしたの?」と尋ねたことがある。母はどのような返事をしたかは、私には記憶に無い。一週間程すると一枚の葉書が届いた、するとあたふたと米と下着を持って出かける。
それは父からの便りであった。その頃は電話も無く手紙であった。父と母は温泉で2〜3泊して帰ってきた。

 戦災で家が焼失、震災で家がつぶれてもその都度父は家を建てた。自分の山の木を切り出し製材して材料にし、足りない材木は安く建てるために、山から切り出された木材を足羽川の堤防の上で買い取ったと聞いている。
金の無い時は自分で木作りをし、屋根を葺き、こうまいをし、壁を塗って家を建てたりしたこともあった。
お金が貯まれば森下の大工さんや北川の大工さんに建ててもらったこともある。清川家に婿養子に来て財産を減らさずに増やさなければならないと思い、身を粉にして働いたのである。

 父は48歳でこの世を去った。私が中学2年生の時であった。

 その頃 和田定四郎さんにいろいろと可愛がってくれた。またいろいろな昔話も聞かせてもらった。「堺さんは早よう死んだのう、苦労しなってのう」と云ってくれた。
有り難いことである。

 前の話に戻すが、「父に町内会長をやらせたらどうだろうか」と云う話があったそうです。と云うことは一応 和田の人間として認めてもらったのかも知れない。しかし「堺さんは養子やでのう」と云うことで町内会長は出来なかったそうです。父は別に町内会長をしたくなかっただろうと思う。昔は町内会長をするのとしないでは大きな違いがあった思う。もう5年も10年も長生きしていてくれれば、そんな思いをしなくても良かったのではないか。

 「堺さんは養子やでのう」の言葉が今でも消えない。



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