めっき屋人生写真館
忠ちゃん奮闘記
1940 誕生
1968 寒ぶな釣り
1945 戦時中と爆弾
1968 母のテレビ感電死?
1948 震災とおばんどこ(父の実家)
1950 ご飯たき
1953 父の病気
1950 父の話と思い出
1951 父とグローブ
1962 1回目の養子の話
1954 父の死
1960 お中元 お歳暮の話
1961 ボーナス
1959 松原めっき時代の話
1960 涙のリアカー
1961 なぜ めっき業を
1962 大起工業勤務時代
1963 結婚
1963 新婚旅行
1963 38豪雪福井に帰る
1963 創業初めての売上
1964 中古品
1965 励まし
1965 武田機械の話
1965 お客様とは
1965 早川社長の話
1968 親方来社
1967 初めての借金
1968 母に言った言葉
1969 冬の西瓜
1970 次男の交通事故
1972 福井弁
1973 大きな仕事
1977 勝たなければ意味が無い
1975 電子部品めっきのきっかけ
1980 壊し魔
息子たち
長男・肇の昔話
次男・卓二の昔話
三男・忠幸の昔話
創業当時を語る
早瀬さん(元常務)の昔話
村尾さん(元工場長)の昔話
清川敏部長の昔話
ISO-14001,9001認証取得 ISOへの挑戦 清川 卓二
会長語録  清川 忠
その他
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 忠ちゃん奮闘記 / 1965 武田機械の話

 商売を始めた頃、仕事を求めて上北野町にある武田機械に日参した。その当時の工場長は間鍋さんと記憶している。その時もご多分にもれずなかなか会ってもらえなかったのである。
 その当時のレースの機械製造は福井では山仙機械と武田機械の2社であった。なぜか武田機械に的を絞った。私の所から近かったからだと思う。
 コ型(品名は覚えていない)のスライド部分の部品に硬質クロームをする仕事が最初であった。その次の仕事は扇と言うアルミニュム製の部品を化学研磨する仕事であった。昭和39年〜40年頃から本格的に硬質クロームめっきをするようになった。その他にはレース機のフレームとフレームを継ぐシャフトがあった。直径が40mm〜50mmで長さが3M〜4.5M位の鉄のシャフトをニッケルめっき、アルカリ性酸化皮膜を施していた。
和田の問屋町が出来る3〜4年前のことである。

 当時は中古の1.5トン車(マツダB-1500)を持ち合わせていた。道路はアスフアルトをされている所は少なく悪かった。1.5トン車に2〜3トンの物を載せてその上長尺の為前後に大きくはみ出して運搬した。会社に着くまでに悪路で揺れ製品を道に落としたり、カーブを曲がりきれずトラックもろともひっくり返ったことが何度もあった。めっきのタンクの長さは3メトール50センチのものを使用していた。長いタンクを買うお金も無かった。
 そこで3〜40KGもあるシャフトを家内と2人で半分ずつひっくり返してめっきをしていた。そういう状態であったが、お客様の納期を守ることにより信頼していただき、だんだん仕事も増えて来た。

*武田機械は、現在の日本マイヤーである。



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