めっき屋人生写真館
忠ちゃん奮闘記
1940 誕生
1968 寒ぶな釣り
1945 戦時中と爆弾
1968 母のテレビ感電死?
1948 震災とおばんどこ(父の実家)
1950 ご飯たき
1953 父の病気
1950 父の話と思い出
1951 父とグローブ
1962 1回目の養子の話
1954 父の死
1960 お中元 お歳暮の話
1961 ボーナス
1959 松原めっき時代の話
1960 涙のリアカー
1961 なぜ めっき業を
1962 大起工業勤務時代
1963 結婚
1963 新婚旅行
1963 38豪雪福井に帰る
1963 創業初めての売上
1964 中古品
1965 励まし
1965 武田機械の話
1965 お客様とは
1965 早川社長の話
1968 親方来社
1967 初めての借金
1968 母に言った言葉
1969 冬の西瓜
1970 次男の交通事故
1972 福井弁
1973 大きな仕事
1977 勝たなければ意味が無い
1975 電子部品めっきのきっかけ
1980 壊し魔
息子たち
長男・肇の昔話
次男・卓二の昔話
三男・忠幸の昔話
創業当時を語る
早瀬さん(元常務)の昔話
村尾さん(元工場長)の昔話
清川敏部長の昔話
ISO-14001,9001認証取得 ISOへの挑戦 清川 卓二
会長語録  清川 忠
その他
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 忠ちゃん奮闘記 / 1968 寒ぶな釣り

 母が子宮癌にかかり一度良くなり家に戻ったことがあった。後で聞いた話であるが末期癌で手遅れであった。死ぬ前には一時的に良くなるみたいである。

 しかし母は例外である、きっと良くなると思い、なんとかして病気が回復してほしいと思い、冬のある日、吉崎の北潟湖に釣りに行った。もちろん寒ぶな釣りである。

 冬のふな釣りは経験がないし、しまみみずを付けて湖のほとりで釣りを始めたがなかなか釣れない。冬の魚は動きが悪い。棒で水面を叩いている人がいるので、私も試してみた。小魚ばかりであったが、よく釣れた。
 後で分かったことであるが、もう少し深いところで釣れば大きいのが釣れたそうである。

 でも喜んで家に飛んで帰り七厘の上で焼き母に食べさせた。すると母は「これで良くなるかのう」と言ったことを記憶している。今でも頭から離れない。昔から寒ぶなは体に良いと言われているからである。

 寒ぶなの効果も無く、まもなく極楽より向かえが来たのである。母60歳、私29歳の時であった。



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