めっき屋人生写真館
忠ちゃん奮闘記
1940 誕生
1968 寒ぶな釣り
1945 戦時中と爆弾
1968 母のテレビ感電死?
1948 震災とおばんどこ(父の実家)
1950 ご飯たき
1953 父の病気
1950 父の話と思い出
1951 父とグローブ
1962 1回目の養子の話
1954 父の死
1960 お中元 お歳暮の話
1961 ボーナス
1959 松原めっき時代の話
1960 涙のリアカー
1961 なぜ めっき業を
1962 大起工業勤務時代
1963 結婚
1963 新婚旅行
1963 38豪雪福井に帰る
1963 創業初めての売上
1964 中古品
1965 励まし
1965 武田機械の話
1965 お客様とは
1965 早川社長の話
1968 親方来社
1967 初めての借金
1968 母に言った言葉
1969 冬の西瓜
1970 次男の交通事故
1972 福井弁
1973 大きな仕事
1977 勝たなければ意味が無い
1975 電子部品めっきのきっかけ
1980 壊し魔
息子たち
長男・肇の昔話
次男・卓二の昔話
三男・忠幸の昔話
創業当時を語る
早瀬さん(元常務)の昔話
村尾さん(元工場長)の昔話
清川敏部長の昔話
ISO-14001,9001認証取得 ISOへの挑戦 清川 卓二
会長語録  清川 忠
その他
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 忠ちゃん奮闘記 / 1960 涙のリアカー

 その当時私のすんでいた町内にはパンパン(オート三輪車)が1台か2台しか無かった。パンパンと言うのは足踏みでエンジンを掛けるとパンパンと言う音がするからである。そんな時代であったので、品物を運ぶ時はリヤカーで運んだ。他にもう1台トヨモータのオートバイがあった。その時代は、バイクはなかなか使わせてくれず、急ぐ時だけオートバイの後ろにリヤカーを付けて運んだ。普通は大型の自転車にリヤカーを付けて運んだ。

 ある日私が自転車の後ろにリヤカーを付けて、富永機械の織機のロールを山積みにして、汗だくになりながらリヤカーを引いていた。その光景を見て母は可哀想で涙が出たそうです。声を掛け後ろから押してやろうと思ったが、私のためにはならないと思い、影からじっと見ていたと聞いたことがある。

 その当時は道も悪く、舗装も十分されておらず凸凹の道であった。 お客先等に集金に行くと、時には「おまえ めっき錆が出て来たぞ、金は払えんぞ」と言われたこともあった。集金をしない訳にも行かず、もじもじしていると、「今日は持って行け、これからは払わんぞ、良いめっきをして来い」と元気ずけられて帰ったこともあった。

 その時代はめっきの薬品が液中にどれだけ入っているのか解らず、指で舐めてみたり、経験とかんで補充していた。膜厚がどれだけ着いているか、計る機械も無かったかんに頼る時代であった。今で言う品質が揃わなかったのである。条件が揃うと揃わないのとでは、錆が来るのも速くて当たり前である。その当時分析装置が無かった訳ではないと思うが、今日のようにどこにでもあると言うものでも無かったと思う。

 しかし親方は頑固一徹の人であった。



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