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 創業当時を語る 村尾さん(元工場長)の昔話 / 昔話し Part1

 昭和47年9月 私は紫野化学に勤務していた前田君と言う従兄に連れられ、鉄筋3階建てビルの2階に上がりました。面接に来たのです。社長は確か食事中だったと思います。
 奥様に和室に案内して頂き、なにか親戚の家に来ているような雰囲気での話し合いだったように記憶しております。それでも緊張していたのか、冷たい麦茶のお代わりを何度かしたのと、その味を喉の奥がかすかに覚えています。
 この頃は会社の従業員数も20数名で、その半数以上が近くのパートの人達だったと思います。私の仕事は石川県大聖寺にある大同工業株式会社まで荷物の集配をする事でした。
 その頃の同社は大同チエーンスポークをメインにオートバイ用のアルミ製リムを製造していました。それもリム作りは初期の頃だったと思います。

 当時大同工業(株)には、同じリムを加工するメッキ業者が3社入っており、金沢と小松からとで当社の参入が一番遅かったのです。私は朝2tのトラックで会社を出て10時前に大聖寺に着き荷物を降ろします。すると、他社2社が来て、大きな台車に乗っているリムをダンボールに入れ車一杯にするまで私は待機していなくてはならなっかたのです。要するに積み残されたものを持って帰るしかなかったのです。
 余りにも悔しかったので、良く覚えているのですが、初めの内は自分も早く帰りたいので、手伝う事もあったのですが、その日の出来高によっては、空で帰らなくてはならない事が出て来たのです。その後私は荷物を降ろすとすぐ現場事務所に通うことにしました。

 余談になりますが、このリムの処理方法である電解研磨がハンド処理されていた頃の事で、液中での処理基準が完全に確保されておらず、ピカピカに仕上がっておるが、リムの内部を覗くと通称「エア−留まり」と言って液面の上部に位置した所が曇ってしまい、キワが出来てしまうと言う不良が度々出たものです。社長始め早瀬常務達は当時相当苦労したと思います。その後この問題は解決され、リン酸浴日本一の自動機導入に繋がってきます。

 私は現場事務所に所用時間の半分位は居るようになり、食事も社員の皆さんと同じ物を取り合いました。特に現場の係長さんには大変お世話になった事を思い出しています。

 その後大同製アルミリムも最盛期に入り、私の乗っていたトラックも4tの超ロングボデー車に変わり、持って帰るリム数も増大し、一時期は倉庫が足らなくなり、社長の実家は勿論叔父様宅、はては農協の倉庫まで借りて満杯にしていた事もありました。
 オートバイ用のリムの為、ヤマハ、ホンダ、カワサキと言った大手メーカーから大同工業に対し特注品の引き合いも多く、当社がその全部を引き受けてゴールド(金色)にしたり、その他の色付や側面に「DID」を並べてスクリーン印刷等加工品として、出荷することもありました。

昔話し Part2 に続く



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