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忠ちゃん奮闘記「なぜめっき屋をはじめたのか」

 当社は昭和38年に創業し、本年で50周年を迎えます。私がめっきを始めたきっかけは色々ありますが、高校を卒業してまず最初に勤めたのが染色大手のA社でした。そこで配属されました1時間のうち仕事はせいぜい20分ぐらいしかないところで、ただ私の性格として、1時間のうち20分位仕事をして残った時間をボーツとしている事などはとても耐えられません。今日では連続精錬や染色なども全自動ですが、当時は木の桶を染料の入った槽の中に入れるという単純な作業で、布が槽の中に入り、布と布の間に空気が入っていると浮いてしまいます。社員が竹の棒で押し込む仕事であったわけです。この仕事はどうも私には合わないと思い、その年の冬、精練槽に落ち大火傷をして二ヶ月ほど市内のある病院に入院をした。
見舞いに来る人達が私の性分をよく知っている人々が口を揃えて『忠ちゃん高校ぐらい出ても部長や課長は大企業では無理や。いいところ班長どまりやね。』と言われ病院に有る。電話帳を見ていますと県内ではめっき業者は一番少なかったのです。昔から数字や化学が好きだったということもあり、小学校五〜六年生の頃、理科の時間に1.5ボルトの乾電池でめっきの実験をした事を思い出し、これは面白そうだということがめっきを始めるキッカケでした。
 そこで、福井市内のめっき屋へ行く事になったのですが、先方の社長は、一生ここに勤めるつもりなら来るな、自分で商売を始める気なら来いと言われました。この話には後に裏が有った事がわかりますが・・・・・。当時はオートバイや自転車、自動車の部品は再生品のめっきがほとんどで、研磨をして板金・めっきをするという、今では3倍も5倍もコストが掛かる作業をしていました。そこでは3年間ほど勤めて、その後大阪へ行きました。
ところが、大阪に来てみますと全然違うんですね。めっきの膜厚も調べますし、各種計測器なども全部そろっていました。やっぱり大阪は違うなということで、一年ほど勉強して福井に帰って来ました。もう一軒別のめっき屋へ行こうかとも思いましたが、結局は、24歳の時に福井市和田中の方で100坪ほどの土地を兄にわけてもらい、自動車の解体修理工場を中古で購入して機械部品やその他製品のめっきを始めました。
 その当時は景気が悪く修理も少なく又、部品のめっきの仕事が多くあまりありませんでしたから、仕事がある時は狭いので立てかけて置いたり、無い時には仕事があるようにみせるため床に敷き詰めておいていた事も有りました。
 開業した当時母親から「お前みたいな若造がやったって信用が無いから商売にはならん」と言われ、いかに年を取っているように見てもらうかという事が一番大変でした。
鳥打帽子を被って作業服に長靴を履いて脇にはカバンを挟んで、一年中このスタイルでお客さんと会うのですが、年を聞かれればサバを読んで「27です」と答えていました。また、二十四才の若造が、たかが四年ほどの修行で物を作ったり売ったり、そう簡単に出来るわけもなし、親方の会社もあり、ライバルのめっき業も多くある中、金もなし、設備もなし、社員もいない。相当ふんどしを締めて掛からないと、成功もしない、成功どころか食べていく事も出来ない。商売を始めると同時に結婚をしたからで有る。
親ならずとも他人までもが、こりやぁ大変だ、本当にやって行けるかなと思うのも当たり前。今になってみれば、年齢的若造だけでなく精神面での若造も含まれていたことも後で気づくのですが。ここで手を差し伸べて甘えさせるわけにはいかない。一生駄目になると母は心を鬼にして、金も貸すな、保証人もならなくて良い、米一粒もやらんでいい、手を貸すな、黙って見守ってやって欲しいと、兄に頼んだそうです。私が中学2年の14歳の時父は他界していますので、母は大分私のことを心配したようです。
めっき業を始めてまだ軌道にのる前に、創業から六年で母は他界した。
「もう少し待っての。今に大きな家を建て、母が我が家に遊びに来たときに、泊まるおっかちゃん専用の部屋作るでの」と言ったものの、生前中は約束を守ることは出来なかった。もう少し長生きして欲しかった。「孝行したい時には親はなし」とはよく言ったものである。
母が他界してから毎年秋になると兄が「忠、新米を持って来たぞ、ここにおいとくでな、食べや」と三十九年間新米を届けてくれている。
甘えは身を滅ぼす、今にしてみると母親はそこまで考えていてくれたのかなとも思います。そのおかげで、二人兄弟仲良くしています。母親に感謝、感謝。


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忠ちゃん奮闘記 めっき屋でござる

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テーマ:忠ちゃん奮闘記    【 2013年09月24日 】


忠ちゃん奮闘記「ホーニング加工」

会長 清川忠が執筆いたしました「忠ちゃん奮闘記 めっき屋でござる」45周年版での追記記事を数回に分けて御紹介させていただいております。

「ホーニング加工」
福井県の武生市(現、越前市)に大きい施盤メーカーがあった。その会社は今はもう無い。さかのぼること39年前の話である。
施盤は、減速したり早速したりする。1台の施盤に多くの歯車を使用していた。その歯車は宇野歯車様より当社に依頼があり、バリ取り、焼き入れの為についたスケールを取り、またピーニング処理により歯車がかけないよう加工をするためであった。
 その頃、1個1個、小さな箱の中でショット(砂)を吹きかける仕事をしていたが、余りにも毎日毎日大量の歯車が持ち込まれるので、タンテーブルの全自動ホーニング装置を購入した。自動と言う名の機械を購入したのは、これが始めてであった。このころから、めっきにおいても、そろそろ自動機が入り始めた頃であった。10年もすると、歯車が無くなり、モーターによる自動制御に変わり、ショット加工と言う仕事は無くなり、梨地めっき用にこの機械は使用されるようなった。


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テーマ:忠ちゃん奮闘記    【 2013年07月30日 】


忠ちゃん奮闘記「たのしみは」

清川忠会長が執筆いたしました「忠ちゃん奮闘記 めっき屋でござる」45周年版での追記記事を数回に分けて御紹介させていただきます。

「たのしみは」
 たのしみはで始まる福井県が生んだ幕末の歌人「橘 曙覧」一人で楽しめる歌として、独楽吟にまとめ、52首に収められている。その中の五首目に
「たのしみは百日(ももか) ひねれど成(な)らぬ歌のふとおもしろく出(いで)ぬる時」
 嬉しいことには、幾日も苦労したけれども、良い和歌が生まれ浮かんでこずに現在に至っている。しかし、不思議なことにふとした何かの拍子に良い歌が出来上がった時で有る。仕事に置き換えると毎日、研究や開発、そして仕事の効率を上げるため、又は品質を上げるため、毎日毎日実験をしたり、また、議論したり、努力をしたが思うような良い結果が出なかったが、ふとした事又はふとした時に良い結果が出た。悩んで悩んだ後の結果であればこそ、喜びもひとしおで有る。
 次に第六首目に
「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ 頭(かしら)ならべて物を食う時」
 嬉しいことには妻子と仲良く食卓を囲んで家族揃って食事をとる時で有る。今日も昔も大人はみんな仕事に大変忙しく、親子、又家族揃って食事をすることは少なかったのだろうが、昔なら、家族揃って食事をする風景は当たり前として思っていた。今日もあまりかわらない。この時代よりも今日のほうが、親子、家族、毎日朝食を食べたり、夕食を一緒に食べる時はもっと少ないかもしれない。
 昨今、家庭の会話又はコミュニケーションの少ないことが社会問題となっている。いじめであったり、家庭内暴力であったり、親を殺傷したり、子供を殴り殺したり悲惨な事件が発生している。この和歌のように、妻子むつまじく頭を並べて食事を取りながら、子供の一日あった話などを聞いてやっていれば、家庭円満ではなかろうか。
 最後に第九首に
「たのしみは、朝おきいでて、昨日まで無(なか)りし花の咲ける見る時」
 嬉しいことには、朝起きてふと庭を見ると、昨日まではまだ咲いていなかった花、咲く様子すら無かった花が、突然咲いていたのを発見したことで有る。しかも思ってもいなかった、考えてもみなかったこと、こんな嬉しいことはない。この和歌は平成6年6月13日天皇皇后両陛下御訪米の際、クリントン大統領が、その歓迎スピーチで引用したことにより、「橘 曙覧」は余りにも著名な作家となったので有る。
 思いがけなく、嬉しいことに出会ったりすること、人と人との出会いを大切にし、めったに会う事の無い人に会えた、嬉しさをお伝えする為に、クリントン大統領は、この歌を引用して天皇皇后両陛下をお迎えになったのであると思っている。
 越前福井小国の幕末の歌人、橘 曙覧が世界に通用する歌人であった事は知らなかった。まだまだ知らない事が沢山ある。どんな小さい事でもとことんまで調べれば、面白く奥が深く、楽しみも増える事であろう。
皆さんもいろいろ挑戦して見ませんか?


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テーマ:忠ちゃん奮闘記    【 2013年06月03日 】