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 創業当時を語る 村尾さん(元工場長)の昔話 / 昔話し Part2

 私がトラックに乗っていた期間は2年位でしたが、この間に忘れる事の出来ない思い出が一つあります。それは、ある冬の朝、近頃みたいに除雪が完全にされていない時で、道路には高さ40〜50センチメートルの積雪がありました。その日も超ロングボデー車にリムを満杯に乗せて出発しました。会社を出てから100〜200m程走ると左、右とカーブが続いている所があります。
 いつもなら少し大廻りでカーブを切るのですが、雪の為、轍の通りにカーブを曲がってしまったのです。車が長すぎて後輪が雪の上に乗り上げてしまい、何とか元に戻そうと前進後退を繰り返す内に、前輪も轍から外れ今にも横転するばかりになり、とうとう道路側の家に倒れ掛かってしまいました。私は会社に戻り、社員全員にスコップ持参で集まってもらい、車を支える人、雪を掻き出す人で半日も道路を塞いでいました。
 その後10年間はライトバンで外回りをしていました。この期間に特に印象深く残っている箇所を幾つか書き出して見ます。
一つは、いつもの通り大同工業の正面玄関を入り、受付を済まし見上げると工場と工場の間に大きな幕が張ってあり、その中に「T.Q.C」とローマ字が三つ並んでいました。その時には、多分自分には関係ないと思ったのでしょう。余り気にせず一日を終えて帰社しました。思い出して何人かの人に聞いたのですが、誰も知りませんでした。
 これに重みが加わったのがある事件です。

 静岡市のヤマハオートバイに納めたリムが、倉庫の中で黄色く変色していると大同工業の品質保証課を通じ情報が入り、現物も後日届きました。社長始め、リム課の課長やQA課の人達まで来て、クレーム品の処理対策に奔走したのですが、原因がさっぱり分かりません。その内メーカーから選別に来てほしいとの連絡が入り、QA課を含めた私共4〜5人が説明も兼ねて出掛けました。向こうの会社は航空自衛隊がと隣にあり、ものすごい爆音と倉庫の中が蒸し暑く一緒に置いてあるタイヤのゴムが独特の臭いを放ち、風が全く入って来ない状態で選別させられて、本当に閉口したことを覚えています。

 後日になって同一ロットでも倉庫が別だと変色が発生しない事が分かり、調査の結果同一倉庫に入っているあるメーカーのタイヤ内部に塗ってあったものが原因と分かり、安心するやあきれるやらで終わりましたが、この時にロット保証単位だけでなく、TOTAL(全社的)品質管理(Q、C)する事の意味と大切さを教わりました。

  話しは少し戻りますが、この時期はアルミ材を使用した仕事が多くありました。リム処理から4〜5年後には、月星製作所株式会社との取引が始まり、最初、奥様の実家の一部を改築し振動ハレルと言って自転車のブレーキフレーム(アルミプレス品)をつや出し研磨し(小松月星)納めさせて頂いたのを始め、(山中月星)自転車のスポーク、大聖寺月星様では自動車ホイール装飾用スポーク、カバー等を研磨及び装飾クロームメッキで納入させて頂きました。

 その後これらと併用しながら、金沢から高校用金属アルミバットに赤、青、黒、等の色を着けスクリーン印刷にて文字等を転写し納入しました。又テニス用ラケット、バトミントンラケットもアルマイト加工の上塗装したり、女子プロ用テニスラケットを大量に受けた事も覚えています。それからこの時にテニス用大型ラケットも市場に出回りブームの発端になっています。

  昭和55年の後半から56年にかけて、リムの仕様も押し出し材から成形品に変わってきました。現在のアルミホイールと言われているプレス品に通常の塗装をしたものです。その後NEC彦根工場の半導体事業部のニッケル板に先端部半田メッキ仕様で納入していた時期があり、昭和58年7月1日付けで福井松下電器様の取引が始まりました。



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